朱莉は自分が宿泊する805号室に着くと、カードキーを差し込んで部屋の中へ入った。中は広々とした20畳ほどの部屋の間取りで大きなベッドが2台置かれている。掃き出し口の窓はバルコニーになっていて、そこから美しい海が見える。時刻は18時を少し過ぎたところで、日の入りが近いのか海にオレンジ色をした太陽が沈みかかり、空は美しい夕暮れ色に染まっていた。「うわあ……綺麗……」朱莉は少しだけその景色に見惚れ……やがて着替えもせずにベッドに倒れ込んでしまった。(おかしいな……さっきから身体が熱くて、頭が割れそうに痛い。風邪でも引いてしまったのかな……?)何とかベッドから起き上がり、持参して来た体温計を探し出すと、熱を計ってみた。やがてピピピピと検温が終わった事を知らせる音が鳴り、体温計の数値を見て驚いた。「え…嘘でしょう…?」何と朱莉の体温は38度5分をさしていたのだ。「そ、そんな……こんな所にきて風邪引いちゃうなんて……」熱もそうだが、それよりも深刻なのが割れそうな程の頭の痛みだった。朱莉は元々片頭痛持ちだったので、痛み止めを常時持参していた。ズキズキと痛む頭を押さえながら、何とかショルダーバックから痛み止めを取り出すと、買っておいたミネラルウオーターで薬を飲む。着替えをする気力も無かったので、取り合えず来ていた服だけを脱いで畳むと下着姿だけでベッドの中へ入った。ベッドの中で身体を丸めて痛む頭を押さえながら寝ようとしても、具合が悪すぎて眠る事ができない。朱莉はベッドの中で自分に必死に言い聞かせた。(大丈夫……さっき私が飲んだ薬は痛み止めだけど、解熱効果もある。きっとその内、熱も下がって身体が楽になって眠れるはず……)やがて暗い室内に寝息が聞こえ始めた。痛み止めが効いて来た朱莉がようやく眠れたらしく、スマホの着信音が鳴っているにも関わらず、深い眠りに就いている朱莉がそれに気づくはずも無かった……。 その頃―― 朱莉とは違う本館のホテルに泊まっていた翔はトイレに行って来ると言って席を立ち、朱莉のスマホに電話を掛けていた。しかし何コール呼び出し音が鳴っても朱莉が電話に出る気配が無い。「どうしたんだ? 何故電話に出ないのだろう? ガイドの女性が空港に迎えに来ると琢磨が言っていたから彼女と一緒に食事でも楽しんでいるのか?」半ばイライラしながら翔は朱莉に
祖父にいきなり明日香との関係性を咎められ、無理やり見合い話を持ち出された時。真っ先に思いついたのが相手に単価を払っての偽装結婚だった。月々、手当として破格の給料を支払い、必要に応じて妻を演じてもらい、別れる時はあっさり身を引いてくれる女性を雇えば良いのだと。まずこの話を最初に相談したのは言うまでもない、明日香だった。明日香にこの話をすると、彼女は突然激しく怒り狂い、家中のありとあらゆるものを破壊しつくした。だが翔の必死の説得により、ようやく応じた明日香と約束したのだ。絶対に偽装結婚をする相手は自分よりも外見が劣る女にしてくれと。 次に相談した相手は琢磨だった。てっきり彼も自分の意見に賛同してくれるかと思ったのだが、偽装妻の話をした時は顔色を変えて猛反対した。お前は相手の人権を踏み躙るのかと。お前が相手にする女性は血の通った人間だ。それなのに、そんな残酷な事をするのかと。だがその時は琢磨の話を鼻で笑い、嫌がる琢磨に無理やり偽装妻の人選をさせたのだ。そして選ばれたのが朱莉。地味な外見で派手な美人である明日香とは比較にならない存在だったのだが……実は彼女はその美貌をどんな理由があるのかは分からないが、自らの意思で隠していた。そしてその事を知った明日香はどんどん情緒不安定になってゆき、今では精神安定剤が欠かせないようになってしまった。こんな事なら最初から諦める前に、時間をかけて祖父の説得を試みるべきだったのだ。そうすれば明日香はこんな状態にならず、朱莉だって不当な扱いを受けるべき存在にはならなかったのだから―― 酔って眠ってしまった明日香を背負い、部屋まで戻ってベッドへ寝かせた時、タイミングよく翔の携帯が鳴った。相手は琢磨からだった。「もしもし。どうしたんだ? こっちの時間ではまだ夜の8時だが、そっちはもう真夜中だろう? 何か急ぎの用事か?」『いや。別に急ぎの用って訳じゃ無い。朱莉さんはどうしてるかと思ってな』「どうしてるかと聞かれてもな……今日はまだ1度も彼女に会っていないんだよ」翔の言葉に琢磨から電話越しに呆れた声が聞こえてきた。『はあ? 翔……お前って奴は……ほんとに……!』「分かってる。朱莉さんには本当に悪い事をしていると心から反省している。だからさっきから、何度も朱莉さんに電話をかけても出ないんだ。恐らくはガイドの女性と
翌朝―― 朱莉は酷い寒気と頭痛で目が覚めた。「参ったな……。体調良くなっているかと思っていたのに……」ため息をつきながら朱莉は寒さで身体を震わせた。寒い……ということは、これからもっと熱が上がるのかもしれない。おまけにシーツや布団が肌に擦れるとヒリヒリと痛む。この様子では今日中に体調が回復するとはとても思えなかった。「パジャマに……着替えなくちゃ……」何とか身体を起こすが、途端に激しいめまいが起こってベッドの上に倒れこんでしまった。(め、目眩……落ち着くのよ……)目を閉じて、目眩が治まるのをそのままの体制でじっと待つ。やがて、徐々に治まってきたので今度はゆっくり起き上がった。「うぅ……」とてもではないが、スーツケースからパジャマを探す気力が無かった。「何か部屋のクローゼットに……バスローブでも入っていないかな……?」ふらつく身体を奮い起こし、朱莉はクローゼットに向かった。震える手で扉を開けて中を覗くと、ハンガーにバスローブがかかっている。ワッフル時で手触りの良いバスローブ。これなら肌に擦れても痛くはないかもしれない。朱莉はバスローブに袖を通し、再びベッドに向かうと痛み止めを飲んだ。本当なら何か口に入れてから飲まなくてはならないのだろうが、あいにくこの部屋には何も食べ物が無いし、食欲すら無かった。(……こんなことなら……部屋に入る前に何か食べ物を買っておけば良かったな……)熱でズキズキ痛む頭を押さえながら、自分の熱くなった額に手を当ててため息をついた。その時、朱莉のスマホが鳴った。「多分……エミさんね……」気力を振り絞り、何とか朱莉は電話に出た。「はい、もしもし……」『おはよう、アカリ。……何だかすごく具合が悪そうだけど……もしかして風邪ひいちゃったの?』受話器越しからエミの心配する声が聞こえてくる。「はい……そうみたいです。それで申し訳ありませんが……今日はとても出掛ける事が出来ないので……ホテルで…休むことにします……」『風邪薬は飲んだの? 何か食べた?』「頭が痛いので……持ってきた痛み止めは……飲みました。…食事はとっていません……」『ええ!? そうなの!? 誰か様子見に来てくれたの?』「いいえ……? 誰も来ていませんけど……?」『……そう』(エミさん……どうしたんだろう?)エミの声に何か怒りというか、
ウトウトしていると、突然額にひんやりとしたものが乗せられて朱莉は目を開けた。すると心配そうに朱莉をのぞき込んでいるエミの姿があった。「……あ……エミさん……?」「ごめんね。起こしちゃったかしら? 熱があまりにも高かったから、冷やしてあげようと思って」「どうもありがとうございます……」「いいのよ、気にしないで。色々食べられそうなもの買ってきたのよ。部屋の冷蔵庫に入れておいたから食べてね。後、家からフルーツを沢山持ってきたの。昨日の夜から何も食べていないんでしょう? どう? 今食べられそう?」「はい……食べられそうです」朱莉はベッドから体を起こすとヘッドボードに寄りかかった。「それじゃ、ちょっと待っててね。すぐに持ってくるから」エミはいそいそと立ち上がると、部屋の奥にある冷蔵庫から皿にのった山盛りのフルーツを持ってきた。皿にはマンゴーやパッションフルーツ、バナナ、そして……。「あの……これは何ですか?」朱莉は皿の上に乗った緑色のごつごつした果実を指さした。「これはね、『カスタードアップル』っていう南国のフルーツよ。聞いた事無いかしら?」「はい……見るのも聞くのも初めてです……」「あら、そうなの? それじゃ早速食べてみてよ。すごく美味しいのよ?」エミは嬉しそうに笑うと身を取り出して、小皿に取ると朱莉に差し出した。「はい、食べてみて」「いただきます……」スプーンですくって口に入れた朱莉は目を見開いた。「美味しいです……不思議な味ですね?」するとエミは教えてくれた。「フフ……これはね、冷やして食べるとバニラアイスのような味になると言われているフルーツなのよ」「あ……なるほど。確かに言われてみれば、バニラアイスの味がします!」「あら、アカリ。少し元気が出てきたみたいね?」「はい。フルーツを食べたら元気が出てきました」「そう、良かった。まだまだあるから沢山食べてね?」「はい……でもそんなに一度に沢山食べられないので少しずついただきますね」エミはその様子を見て頷いた。「一応、我が家で常備している風邪薬を持ってきたから、後で飲んでね?」「はい。色々とありがとうございました。折角モルディブに来て風邪をひいてしまって不運だなって思っていましたけど、エミさんに出会えて本当に良かったです……。こんなに誰かに親切にしてもらうのは……久
モルディブ時間の午後8時—―翔のスマホが鳴っている。部屋にいた明日香が気付き、手に取った。「誰かしら……あら?」着信相手は琢磨からだ。早速明日香は電話に出ることにした。「はい、もしもし」『もしもし…って明日香ちゃんか?!』「ええそうよ、何? 仕事の話かしら?」明日香はベッドの上でワインを手に取ると優雅に飲んだ。『いや……別にそういうわけじゃないが……。翔はどうしたんだ?』「シャワーを浴びに行ってるわ」『そうか。という事は食事は済んだのか?』「ええ、そうよ。今日はモルディブでも有名なレストランに行ってきたのよ。やっぱりこの国の魚料理はおいしいわね」明日香はその時の事を思い出し、笑みを浮かべる。『ああ、そうかい。それは良かったな』電話越しに琢磨のイラつきを感じとる明日香。「あら、何よ。随分イラついているじゃない? さては私達だけモルディブで羽を伸ばして自分だけは日本で仕事をしているから、八つ当たりでもしてるのかしら? なら貴方も来月休暇を取ってここに来ればいいじゃない。海は綺麗だし最高よ?」そしてもう一杯、ワインを飲み干す。『おい……明日香ちゃん。もしかして酒でも飲みながら話してるのか?』「あら、良く分かったわね?」『当り前だろう? さっきから会話の合間合間に何か飲み干す音が聞こえてくるんだから……おい、電話中に酒はやめろよ。気が散る』「ほんとに琢磨って昔から遠慮なしにずけずけと言いたい事言ってくれるわね? この私にそんな口聞くの貴方くらいよ?」『おお、そうかい。それは良かったな? 明日香ちゃんに物申せる人物がいてさ』「……切るわよ? 何よ。文句を言う為にかけて来た訳?」明日香はムッとして通話を切りかけ……。『おい、待てよ! おかしいだろう? そもそも俺は明日香ちゃんの携帯じゃ無くて、翔の携帯に電話してるんだぞ? 勝手に人の電話に出て、挙句に切ろうとするなんて滅茶苦茶な話だろ?』「……それじゃ、何の為に電話してきたのよ」すると、はああ~と電話越しに琢磨の溜息をつく声が聞こえてきた。『ああ……もういいや、電話の相手が明日香ちゃんでも』「何よ? 私でもいいって?」『いいか? 俺は朱莉さんの事で電話をかけてきたんだ』朱莉と聞いて、明日香の眉がピクリと動く。「な、何よ。私はちゃんとやるべきことはやったわよ? 彼女の
『何だ……随分悔しそうにしているみたいじゃ無いか? 朱莉さんを困らせる事ができなくてそんなに残念か?』「な、何言ってるの? そんなはず無いでしょう!?」図星を指された明日香は強気な態度で胡麻化す。『おまけに自分達だけはファーストクラスで彼女はエコノミーか。せめてビジネスクラス位は考えてあげなかったのか?』「そ……そんなの、取れなかったからよ!」『嘘つくなよ。知ってるんだぞ? 鳴海グループの御曹司なんだからVIP待遇で飛行機の座席くらい簡単に抑えられるのは。どうせ彼女は庶民なんだから……とでも思ったか? それとも名ばかりとは言え翔の妻だから彼女が気に入らないか? もしかして朱莉さんに嫉妬してるのか? でもそれはおかしな話だよなあ? 彼女の方がずっと弱い立場なのに……』明日香は痛い所を突かれて、言葉を無くしてしまった。嫉妬? まさか……本当に嫉妬してるのだろうか? 明日香は頭を押さえた。『なんだ図星か? まあ、別にいいさ。俺が電話をかけてきたのは、そんな事を言う為にかけたんじゃない。だって今更言っても始まらないことだしなあ? そんなことよりも知ってるか? 朱莉さんがホテルに着いた途端に高熱で倒れたのは?』「え? 何よそれ……?」そんな話は初耳だ。明日香は受話器を耳に押し付けるようにして琢磨に尋ねた。『そうか……やはり知らなかったのか。翔には昨夜電話入れたんだけどなあ。朱莉さんが高熱で倒れたからホテルに様子を見に行ってやれって。明日香ちゃんにはそのこと伝えなかったのかよ?』「何も聞いてないわよ! って言うか……何故日本にいる貴方がそんな事知ってるのよ?」再び興奮し始めた明日香は声を荒げる。『おい、だから耳元で大きな声を出すなって言っただろう? ちゃんと聞こえてるから普通の大きさで話せよ』「わ、分かったから話しなさいよ」『現地ガイドの女性から連絡があったんだよ。朱莉さんの具合が悪そうだから様子を見に行ってあげるように伝えてくれって。だから俺は翔に連絡をいれたんだけどなあ……』「!」その時、明日香が息を飲む気配を琢磨は電話越しに感じた。(おいおい……まじかよ……)琢磨は溜息をつくと言った。『その様子だと何か心当たりありそうだな? さては止めたか? 朱莉さんの所へ行こうとした翔を……』「だ……だってそうでしょう!? この旅行は……
翌朝――「う~ん……」 朱莉はベッドの中で大きな伸びをした。エミのお陰で朱莉はすっかり熱も下がり、体調は回復していた。ホテルに着いてから1度もシャワーを浴びていなかった朱莉は着替えを用意するとバスルームへと向かう。「ふう~。気持ち良かった……。それにしてもここへ来てから殆ど食事していなかったから体重随分減っちゃったみたい」朱莉は溜息をついた。先ほどバスルームにある鏡を見たとき、あばら骨が浮いているのを見て衝撃を受けてしまった。「今日は何か栄養のある食事をしないとね」――コンコンその時、部屋のドアがノックされた。「え……? 誰だろう?」恐る恐る部屋のドアを開けるとワゴンを押したホテルの女性従業員が立っていた。朱莉を見つめ、片言の日本語で話し始めた。「オハヨウゴザイマス。具合はイカカデスカ?」「あ、もうお陰様ですっかり良くなりました」ペコリと頭を下げる。「コチラ、ルームサービスデス」女性はワゴンを押して部屋の中へと入って来ると、備え付けのテーブルにステンレス製の蓋が付いた大きなトレーを置いた。「食事がオワッタラ、ワゴンの上にトレーヲ乗せてロウカに出して置いて下さい」女性は会釈すると部屋から出て行った。「え……? ルームサービス? 確かこのホテルは自分達で1Fフロアのレストランへ行くんじゃなかったっけ?」朱莉は首を傾げたが、エミの顔がふと頭に浮かんだ。そうだ、きっとエミのお陰かもしれない。彼女がルームサービスを手配してくれたのだ。「後でお礼言わなくちゃ」朱莉はトレーの蓋を開けた。すると、まだ食事は出来立てだったのだろう。熱々のオムレツにボイルしたウィンナー。ベーコンにポテトサラダ、そして数種類のテーブルパンにオニオンスープ。アイスコーヒーまでセットでついている。「うわあああ……美味しそう!」思わず感嘆の声を上げた。「嬉しいな。モルディブに来てフルーツ以外の初めての食事だから。いただきます」朱莉は手を合わせると、まずはオムレツを口に入れる。「おいしい! 流石ホテルの食事!」ほぼ2日ぶりの食事と言う事で、朱莉はあっという間に間食してしまった。食べ終えたトレーをワゴンに乗せて、廊下に出すと早速エミにメッセージを送ることにした。『おはようございます。お陰様ですっかり具合が良くなりました。ルームサービスをわざわざ頼んでいた
丁度、その頃――「そう言えばね……昨夜、琢磨から連絡がきたのよ。朱莉さん、具合が悪かったんですって?」朝食の席で明日香は翔に尋ねた。「え? 琢磨から電話があったのか? いつ?」「貴方がシャワーを浴びていた時よ。琢磨からだったから私が出たの」「あ、ああ……。そうだったのか。それで琢磨は何て言ってた?」「ええ。昨夜の話では、朱莉さんが個人的に頼んだガイド兼通訳の人が朝朱莉さんを見舞ってあげたらしいわ。フルーツを差し入れしてあげたら喜んでいたって。そのガイドの女性が帰る頃には大分具合が良くなっていたそうよ。良かったじゃない。親切なガイド女性に巡り合えてね」ツンとした様子で明日香はそれだけを話すとミネラルウォーターを飲み干した。他にも色々琢磨には朱莉の事で責められたが、思い出したくも無かったので明日香は黙ることに決めたのだ。「……」一方の翔は明日香の話を聞いてから難しそうな顔で黙り込んでいる。その様子を見て明日香は眉を顰める。(まさか、朱莉さんのことを考えているのかしら? だとしたら許せないわ。私が目の前にいるのに他の女のことを考えるなんて)「ねえ、翔。何を考えているの? ひょっとして朱莉さんのことなんじゃないの?」念の為に明日香は尋ねてみたが、翔の答えは明日香の思っていた通りの答えであった。「あ、ああ。朱莉さん、今朝はもう体調良くなったかなと思って。ごめん、明日香の前でこんな話して。忘れてくれ」謝られても明日香は翔が朱莉のことを考えていたと言われるだけで、どうしようもない嫉妬にかられてしまう。そこである考えが浮かんだ。朱莉に嫌がらせをする最高の考えが……。(そうよ、翔がいけないのよ。私はちっとも悪くない……)「ねえ、翔。朱莉さんの具合が気になるなら連絡入れてみなさいよ」明日香の急な提案に翔は目を見開いた。「え……? い、いいのか?」「いいに決まってるじゃない。だって高熱を出したんでしょう? 今の体調が気になるのは私も一緒よ。それで、もし朱莉さんの具合が良いなら3人で一緒に出掛けましょうよ。おじいさまにモルディブに行ってきたことを証明するためにも写真があった方がいいでしょう?」「確かにそうだな。ありがとう、明日香」翔は嬉しそうに笑った。明日香のその裏に隠された本心を知ることもなく――****バルコニーで海を眺めていた朱莉の元
「こんばんは、九条さん。偶然ですね」「はい、実はそちらのビルに用事があって来ていたんですよ。このドレスを見ていたんですか?」琢磨は青いドレスを指さすと尋ねた。「あ。は、はい。素敵なドレスだなと思って……」朱莉は頬を染めながら答えた。「確かに素敵ですね……。奥様に似合いそうですね」「いいえ。ただ見ていただけですから。それにあったとしても宝の持ち腐れになってしまいますし」「そうでしょうか? 今後必要になるかもしれませんよ?」琢磨は首を傾げ、次の瞬間息を飲んだ。朱莉があまりにも悲し気な目でワンピースを見つめていたからである。「奥様? どうされましたか? そう言えば何故こちらにいらしたんですか?」「あの……九条さん」「はい、何でしょうか?」「奥様って……私はそんなんじゃありませんので、どうか名前で呼んでいただけますか? 始めの頃のように」朱莉は悲し気に言った。「そう言えば最初は朱莉様と言っていましたね。それでは朱莉様で……」「いえ、様付で呼ばれるほどの大した人間ではありませんので、さん付けで呼んでいただけますか?」朱莉は顔を上げて九条を見た。それは真剣な眼差しだった。「分かりました。それでは朱莉さんと呼ばせていただきます」「ありがとうございます。あの……先ほどの九条さんの質問の件ですが……あの病院に母が入院しているんです」朱莉の指さした方向には巨大な病院が建っていた。「そう言えば、朱莉さんのお母様は転院してあちらの病院に移られたのですよね? それでは面会の帰りなのですね?」「はい。あの……翔さんは……どうしてますか?」「はい、副社長ならお元気にしておられますよ? 朱莉さんはもう副社長にクリスマスプレゼントのリクエストはされたのですか?」朱莉がその言葉に一瞬ビクリと肩を動かす。「もしかすると朱莉さんは副社長にリクエストされていないんですか?」琢磨は声のトーンを落とした。「あ、あの。私からリクエストなんて、そんな図々しいことは出来ませんから」「副社長から聞かれなかったのですか? リクエストの話はありましたか?」「ありません……。それに、たとえリクエストを聞かれても……その願いが叶うかどうか……」そこまで言うと朱莉はハッとなった。いくら翔の秘書だとは言え、話し過ぎてしまった。「すみません、九条さん。私、用事があるのでこ
「朱莉。もう鳴海さんと入籍して半年以上経つけどまだ会う事はできないのかしら?」今日も朱莉の母――洋子は面会に訪れた朱莉に尋ねた。「うん、ごめんね……。翔さんて、鳴海グループの副社長で凄く忙しい人だから、どうしても面会に来る事が出来なくて」朱莉は母の為にリンゴの皮を剥きながら俯き加減に答える。「そうなの?」「うん、だからもう少しだけ待っていてくれる」朱莉は寂しげに笑った。「え、ええ。分かったわ。ところで朱莉……」「何? お母さん」「朱莉、今……幸せに暮らしているの?」「嫌だなあ。お母さんたら。幸せに暮らしているに決まってるでしょう? はい、リンゴ剥いたから食べて?」朱莉は笑顔でに皿に乗せたリンゴを手渡した。「ありがとう、朱莉」「お礼はいいから早く食べてみて? すごく美味しいんだから。翔さんがお母さんにって買ってきてくれたんだから?」「そうよね……。いつもありがとうございますってお礼伝えておいてね?」洋子は弱々しい笑顔で朱莉に言った。「うん、勿論。ちゃんと伝えておくね」洋子は一緒にリンゴを食べている娘の横顔をじっと見つめながら思った。朱莉は幸せに暮らしているのだろうか? とても今の様子を見る限りは幸せに暮らしているとは到底思えなかった。むしろ缶詰工場で働いて1人暮らしをしていた時の方が、生き生きとして見える。(朱莉は誰にも相談できない様な重大な辛い秘密を抱えているのかもしれないわ……)しかし、とてもそれを確認することは出来なかった。何故なら少しでも朱莉に鳴海翔のことを尋ねようとすれば悲し気な顔を見せるのでとても聞きだす気にはなれなかったのだ。2人の結婚生活については、この話が出た時からずっと疑問に思っていた。(朱莉……もしかして貴女……私の為に鳴海家に身売りしたの……?)しかし、朱莉に尋ねることが出来なかった――「それじゃ、また明日来るね。お母さん」「ねえ、朱莉。何も毎日面会に来なくてもいいのよ? 大変じゃない?」朱莉が部屋を出ようとした時、洋子は声をかけた。「ううん。そんなこと無いよ。毎日お母さんの顔見ないと安心出来無いから。それじゃまた明日ね」笑顔で手を振ると、朱莉は病室を後にした。****「ふう……。今日もまたお母さんに嘘をついちゃったな」イルミネーションが美しい町中を歩きながら朱莉は溜息をついた。朱莉
「どうした? 琢磨?」「翔! お前、本気でそんなこと言ってるのか? 尋ねる相手と言ったら朱莉さんに決まっているだろう!?」「あ……ああ。そうか……朱莉さんか……。頼む、琢磨。お前から朱莉さんに聞いて貰えるか? 彼女にプレゼントしたいからと言ってさ」「翔! 俺には今付き合ってる彼女はいないぞ?」琢磨は睨みつけた。「そんなのは勿論分かってるさ。ただ……」「何だよ? 今まで黙っていたけど……お前、朱莉さんとは連絡どうしてるんだ?」琢磨の射抜くような視線に翔は溜息をついた。「実は初めて明日香をカウンセラーに見て貰った時に言われたんだ。明日香を少しでも安心させるように、当分の間朱莉さんとは連絡を一切取らないようにって。そのことは最初に言われた時に、朱莉さんには説明したよ。悪いけど、暫く連絡を取ることは出来ないって。まあ、今のところ親族との顔合わせも予定していないし会長も結局年内には帰国できないことが決まったしな。朱莉さんも俺達と関わらない方が気楽だろうから、いいだろう」「何だって? そんな話は初耳だぞ? 明日香ちゃんには内緒でもう一度カウンセラーに相談してみろよ。あれから3カ月は経過している。?もうすぐクリスマスなんだし、このままにしておいていいはずはないだろう?」「……」「何故そこで黙るんだよ?」「いや……一応ボーナスの上乗せは考えているんだが……それだけではまずいだろうか?」翔の言い分に琢磨は唖然とした。「本気で言ってるのか? お前と明日香ちゃんはこれから2人だけのクリスマスのイベントが結構入っているじゃないか? それなのに朱莉さんは? 偽装妻であることがバレないように極力親しい人達との連絡も取らないようにって最初に結んだ契約書の中にあったよなあ? 朱莉さんだけ寂しい思いをさせて、自分たちはクリスマスを楽しむつもりか?」「琢磨……」(琢磨の言う事は尤もだ。朱莉さんとは書類上とは言え、正式な妻であるには変わりない。だが、明日香の嫉妬から守る為に放置してきたのは良く無いかもしれない。俺としては暫く朱莉さんとの連絡を絶つことが、彼女にとっても最良の方法かと思っていたのだが……)「分かったよ、琢磨。明日にでもカウンセラーの女性に朱莉さんと連絡を取り合ってもいいか確認してみる」「ああ、是非そうしろ」琢磨は残りのコーヒーを一気に飲み干した。「
季節が移り変わり、いつの間にか12月になっていた。休憩時間、オフィスの窓から翔と琢磨は外の景色を眺めながらコーヒーを飲んでいた。「世間はもうクリスマス一色だな」琢磨は翔を見ながら話しかけた。「ああ…本当に早いものだな…」翔は窓の外をじっと見つめながら何か考えごとをしているように見える。「どうした? 翔。何考えているんだ?」琢磨は翔の様子に気付き、声をかけた。「あ、ああ……。実は明日香からクリスマスプレゼントは今年は俺が選んでくれって言ってきて困っているんだ。20代の女性が好むプレゼントって言うのが俺には良く分からなくてな……」「へえ~。いつもなら毎年明日香ちゃんが自分の方からリクエストしてくるのに随分変わったな? これもカウンセラーのお陰じゃないか?」「ああ……。そうかもな。琢磨、ありがとう。お前のアドバイスのお陰だよ。あのまま何もしないで放っておけば今頃明日香はどうなっていたか分からないよ。それにカウンセラーのお陰で、明日香は家政婦も受け入れてくれたしな」翔は笑顔で言った。今、明日香と翔の元には月曜~金曜日まで家政婦協会からベテラン家政婦が派遣されて来ている。その人物もカウンセラーからアドバイスを受けて、条件にかなった人物を探し出し、専属の家政婦をやって貰っているのだ。家政婦として雇った相手は60代の女性で、若い頃は秘書として働いていた。きめ細やかな所まで行き届くように世話をしてくれる素晴らしい家政婦であった。カウンセラーと家政婦のお陰で翔の負担はあの頃とは比べ物にならない位に楽になった。カウンセラーと家政婦には当然翔と明日香の関係を……そして朱莉と言う偽装妻の存在も打ち明けていた。その際、絶対に誰にも口外しないことを条件に告白していた。そのことをカウンセラーと家政婦に伝えた所、自分たちをあまり見くびらないでくれと叱責されたほどであったのだ。「琢磨。本当に感謝している。お前がいなければ、今頃どうなっていたか分からないよ」すると琢磨が肩をすくめる。「あのな、俺は別に明日香ちゃんの為だけを思ってアドバイスをしたわけじゃないぞ? お前のことや、それに朱莉さんのことを心配して言ったんだからな?」「ああ。勿論分かってるさ」苦笑する翔。「あ、そう言えばさっき明日香ちゃんへのプレゼント何がいいか考えていたよな?」「ああ。そうだ」
「ふう……。今回は父のお陰で助かったな……。いや、そんな言い方をしては駄目か」翔は口元に笑みを浮かべると考えた。(それにしてもおかしい。妙にタイミングが良すぎだ。偶然だろうか……?)「まさか……な。だが……何かおかしい」翔は念のために琢磨に電話を入れた。何回かの呼び出し音の後、琢磨が電話に出た。『もしもし。どうした翔?』「こんな時間に悪い。実は先程会長から電話が入ったんだ。マレーシア支社でトラブルがあったとかで、そっちに向かわなくてはならなくなったと。だから今回の会長の帰国は取りやめになった」『ああ、そうか』「そうかって……やけにお前、あっさりしてるな? もっと驚くかと思ったが」『そうか? でも予定が変わるのは別におかしな話じゃない。いつものことだろう?』「いや、いつもと違って妙な感じがある。……琢磨、正直に答えてくれ。お前……何かしただろう?」『何かって……何をだ?』「おい、とぼけるな。お前……父に何か話をしたんじゃないのか?」しかし、中々返事が無い。「琢磨、黙っていないで答えろ』『分かったよ……。そこまで気付いているなら話すよ。実は社長に明日香ちゃんのこと……伝えたんだよ』「! おまえなあ……! 何か余計なこと話したりしていないよな?」『ああ、安心しろ。明日香ちゃんがお前と一緒に暮らしてるなんてこと、口が裂けても話していない』「それじゃ……何て言ったんだ?」『最近、明日香ちゃんが精神面で弱っている。この状況で会長と会った時、明日香ちゃんがどうなるか心配だって相談したんだ。言っておくが俺がこの話をしたのは明日香ちゃんの為じゃない。お前と朱莉さんを心配してのことだからな?』「俺と朱莉さんの為……?」『そうだ。朱莉さんの件からずっと明日香ちゃんの精神状態がおかしくなったのは確かだ。だが、それは朱莉さんには何の落ち度もない。むしろ彼女は俺達の計画に巻き込んでしまった哀れな被害者だ。それに翔、お前はある意味自業自得ではあるが……ここまで明日香ちゃんの精神状態がおかしくなるとは思わなかったんだろう?』「ああ……」偽装結婚の話は明日香と何度も話し合って、互いが納得して決めた事であったはず。なのに朱莉という書類上だけの仮の妻が現れた途端、明日香はおかしくなってしまった。いや、正確に言えば朱莉の美貌を目の当たりにした途端、明日香が
翌朝――オフィスで琢磨は翔からの電話を受けていた。「ああ、大丈夫だ。こっちのことは心配するな。……何言ってるんだ。そんな事は今更だろう? ……うん。急ぎの案件はこちらで処理して、後でメールするから安心しろ。なあ、翔……。これは俺からの提案なんだが……。え? ああ……そうか。悪かったな。それじゃ電話切るぞ。じゃあな」ピッ琢磨は翔からの電話を切ると溜息をついた。「翔……。俺は明日香ちゃんよりも……お前の身体の方が心配になってくるよ……」(何とか翔の負担を少しでも減らしてやらないと……)琢磨はPCのメールを立ちあげると、メッセージを打ち始めた――****「ああ~。やっぱり家はいいわねえ……」明日香は伸びをしながらリビングのソファに座った。「明日香。今日は家でおとなしくしているんだぞ?」荷物を持って後から部屋へ入って来た翔は明日香に声をかけた。「はいはい、分かってるわよ」明日香は背もたれによりかかりながら返事をした。その時翔が着替えを持ってバスルームへ行こうとしているのに気が付き、声をかけた。「あら? 翔。シャワー浴びるの?」「あ、ああ……。結局昨夜はそのまま着替えもせずに寝てしまったからな」「あら? 私のせいだと言いたいのかしら?」明日香はジロリと翔を睨む。「何故そう思うんだ?」「だって今貴方がシャワーを浴びるってことは、私がこの部屋に昨夜帰らせずに着替えを取りに戻れなかったからと言いたいんでしょう?」「別に俺は何も言っていないぞ?」翔は明日香の隣に座るった。「だいたいねえ……。私が入院になったって聞いた段階で、一緒に病院に泊ろうって考えるのが筋じゃないの? 最初からそう考えていれば、自分の着替えを持って来ようと言う考えに至ると思わない?」「あ……」翔は唖然としてしまった。まさか明日香がそこまで考えていた等想像もつかなかった。「そうだよな……言われてみればそのとおりだった。お前が入院したなら、付き添い位考えれば良かったな。明日香。俺の考えが至らなくてすまなかった」明日香の頭を自分の肩に抱き寄せる翔。「いいのよ……。分かってくれれば。だから、翔。お願い……絶対に私を1人にさせないでよ?」明日香は翔の胸に顔を埋めると懇願する。「ああ、分かってるよ。明日香……お前を決して1人にはしない……」(今の明日香はあの時と
「いえ、私は別にお金の為では無く……」口にしかけたが、明日香にぴしゃりと言われた。「貴女ねえ……こういう場合はしのごの言わずに黙って受け取るのよ。何? それともお金以外に何か下心でもあったのかしら?」「おい、明日香!」翔は咎めようとしたが、明日香が憎悪の込めた目で朱莉を見つめていたので、何も言うことが出来なかった。(駄目だ。俺が朱莉さんを庇い建てするとますます彼女の立場が不利になってしまう)「あ、明日香さん……。謝礼金……ありがたく受け取らせていただきます」朱莉は消え入りそうな声で明日香に礼を述べた。「そうそう、最初から素直にお金を受けとると言ってれば良かったのよ」「はい、それでは私は今夜はここで失礼します」朱莉は頭を下げて部屋を出て行こうとした。「俺が車で送るよ」翔がそう言った時、突如として明日香がジロリと翔を睨み付けた。「何ですって? 朱莉さんを送るって言ったのかしら?」「あ、ああ……。車で病院迄来ているから。彼女を自宅まで送れば、俺も着替えを持って来れるだろう?」すると明日香が目に涙を浮かべる。「酷い……翔……」「え? どうしたんだ? 明日香」「こっちは自宅で意識を無くして病院に運ばれて入院したって言うのに……翔はそんな私を放って朱莉さんを自宅まで送るって言うの!?」「い、いや……。でも、ほら……大分外も薄暗くなってきているし……」「薄暗いって言ったってまだ7時にもならないでしょう!? 子供じゃないんだから朱莉さんは1人で帰れるわよっ! ねえ……心細いのよ、翔。何処にも行かないでよ!」明日香は翔に縋りついてきた。「明日香……」明日香の髪を撫でながら朱莉を見た。「あの、私の事なら大丈夫です。1人で帰れますので、どうか気になさらないで下さい。それでは明日香さん、どうぞお大事にして下さい」朱莉は頭を下げると、翔の返事も聞かずに足早に部屋を立ち去って行った。(朱莉さん……)翔の脳裏には先程朱莉が見せた悲し気な顔がいつまでも残っていた――****朱莉は美しい光に照らし出されたビル群の間を口を結んで黙って歩いていた。電車に乗っている時も下唇を噛み締めていた。億ションに向かって歩いている時は数学の公式を頭の中で唱えていた。そして、エレベーターに乗り込み、自宅の部屋の鍵を開けて室内へ入ってから、初めて朱莉はきつく
翔は自宅から入院に必要な荷物や保険証を用意すると、すぐに朱莉から教えて貰った明日香の入院先の病院へと向かった。病院に到着したのは午後6時過ぎ。翔は急いで明日香が入院しているナースステーションへ向かうと面会手続きを済ませ、明日香が入院している701号室へと向かった。701号室はこの病院の特別室となっていた。「朱莉さん!」701号室の廊下に置かれたパイプ椅子に朱莉が座って通信教育の勉強をしている姿が目に飛び込んできた。「あ、翔さん。お待ちしておりました」朱莉は立ち上がると会釈する。「朱莉さん。今日は本当にありがとう。貴女のお陰で明日香が大ごとにならずに済んだよ。本当に感謝している」「いえ、私は明日香さんからメッセージを貰って、それで倒れている明日香さんを発見して救急車を呼んだだけですから」「それで、何故廊下にいるんだい? 中へは……」そこまで言いかけて翔は言葉を飲み込んだ。ひょっとすると朱莉自身が病室に入るのを拒んでいるのか、それとも明日香に拒絶されたか……。どちらかなのだろう。「それでは、翔さんもいらしたことですし、私は失礼しますね」朱莉は立ち上がるとテキストをカバンにしまって立ち上がった。「ま、待ってくれ。朱莉さん! 明日香はもう目が覚めてるのか?」「はい。看護師さんの話では1時間ほど前に意識を取り戻したそうですよ?」「なら一緒に中へ入ろう! 明日香に礼を言わせるから!」「え? で、でもあの……」朱莉は動揺しているが、翔は思った。(何。明日香は朱莉さんに自ら助けを求めたんだ。今なら2人は少し歩み寄れるチャンスかもしれない)「さあ、一緒に病室へ入ろう」翔は朱莉の右手首を掴むと明日香の病室のドアを開けた。「明日香! もう具合が良くなったんだってな?」翔は笑顔で明日香の病室へと入って行く。「翔! 遅かったじゃない! って朱莉さん! 貴女……翔と何やってるのよ!」明日香の鋭い声が朱莉に向かって飛んでくる。「す、すみません」朱莉がビクリとなって翔に掴まれ散る右手を引こうとした。その時になって翔は自分が朱莉の手首を握りしめていたことに気が付いた。(まずい!)翔は慌てて朱莉の手首を離した。「違う!明日香、今のは誤解だ。俺が勝手に朱莉さんの手首を掴んでいたんだ」そして慌てて明日香に近付く。「明日香。朱莉さんに礼は伝えた
17時――無事に商談を終えた琢磨と翔はオフィスで珈琲を飲んでいた。すると、突然琢磨のスマホに着信が入った。琢磨はその着信相手を見て怪訝そうに首をひねる。「え……? 朱莉さんからだ……?」「朱莉さんからメッセージが入ったのか?」翔は珈琲をデスクに置いた。「あ、ああ。なんだろう? まさか明日香ちゃんが朱莉さんの部屋へ行ったのか?」「琢磨、早くメッセージの内容を教えてくれ!」翔がせっつく。「分かった」琢磨はスマホをタップしてメッセージを開いた。『お忙しいところ、申し訳ございません。実は明日香さんから突然<たすけて>とメッセージが入って来たので、お部屋に伺った所、倒れている姿を発見いたしました。呼びかけても反応が無く、すぐに救急車を呼びました。今は六本木の総合病院に運ばれて眠っております。病名は、<過換気症候群>でしたが命に別状はありませでした。ただ、念の為に本日は入院をするように先生から言われております。申し訳ございませんが、お手すきの時にお電話いただけないでしょうか?』琢磨と翔は2人でメッセージを読み、息を飲んだ。「明日香……!」翔の顔色が変わる。「おい、翔。過換気症候群て、いわゆる過呼吸っていうやつだろう? 今までにも同じ症状を起こした事はあるのか?」「分からない……。少なくとも、俺と2人きりの時はそんな症状を起こしたことは無かった」「すまない翔。多分、明日香ちゃんが過呼吸を起こしたのは俺のせいだ。お前朱莉さんに直接連絡入れろ。そしてすぐに病院へ行けよ。何、もう今日の重要な仕事は終わったんだ。早く明日香ちゃんの所へ行ってやれ。あまり朱莉さんに負担をかける訳にはいかないからな」「ああ、分かったよ」翔はその後、すぐに朱莉のスマホに直接電話をかけた。2人は暫く電話で会話のやり取りをしているのを琢磨は自分のデスクで仕事をしながら、時々様子を伺っていた。(それにしてもあのプライドの高い明日香ちゃんが朱莉さんに助けを求めるなんて……余程苦しかったのだろうな。だけど、これをきっかけに少しでも明日香ちゃんの朱莉さんに対する心情が変化して、歩み寄ってくれれば……)しかし、そこまで考えて琢磨は首を振った。一瞬でも馬鹿な考えを持ってしまったと思った。例え、明日香の心情に少し変化が現れたとしても今まで明日香に散々嫌な目に遭わされてきた朱莉に取っ